刑務所でソーシャルワークしている僕が「当事者研究」に学ぶもの──専門性からの脱却と対話実践

僕は3年前から某刑務所にて、受刑者支援に携わっている。知的障害者や精神障害者をベースに、一定のスクリーニング検査に基づいて選抜された受刑者(以下、「本人」)を、アセスメント・支援計画立案・モニタリング・ケース会議などで関わりながら、入所から出所までの間を一貫して支援している。これらの支援を行う上で、絶対に欠かせないのが「本人の話を聴く」ということである。

ただ、本当の意味で「本人の話を聴く」ことができているのか。刑務所という社会生活から隔離された特殊空間において、制約が多い状況を言い訳に、僕は「本人の話を聴く」ことができずにいる。そうモヤモヤ感じているところに、『刑務所で当事者研究をやってみた──対話実践とチーム処遇が扉をひらく』を手に取った。

本書は札幌刑務所を舞台に、6歳で万引きを覚え、少年院を経て断続的に刑務所で過ごしてきた受刑者Aさん(40代半ば)との当事者研究である。Aさんの更生を促すというより、Aさんが抱える「つながりの喪失」によって、緊急避難的に犯罪へと向かってしまう個人的要因が、実は社会構造そのものが問題なのだと、この当事者研究の記録から気づかせてもらえる。また、当事者研究に参加している刑務官Xさんの内的変容も、とても興味深い。日頃、刑務官の方に関わる僕としては、刑務官としての合理性が垣間見えたのは今後のチーム処遇につながりそうだと感じた。

僕が本書を読み始めて、すぐ共鳴したのが「つながり」についての一文。

そう考えたとき、Aさんをはじめとする「累犯障害者」の多くは、「つながり」を得ようともがくなかで、ときに手段を選ばないこと(犯罪)が繰り返されていた可能性があるし、罰や懲らしめという”かりそめ”のようなものでもいいから、「つながり」を求めて刑務所という居場所に戻らざるを得なかった人たちのような気がするのです。(P10)

僕が関わっている累犯障害者の中にも、出所後1年も経たないうちに犯罪を犯して、刑務所へと戻ってくる人がいる。そのような人たちの心理状態はどのようなものなのか。キーワードは「つながり」なのではないかと思う。外部から断絶された刑務所という特殊な場所では、ほとんどの行為が管理されている。この「管理」は、受刑者にとっては「つながり」へと変換される場合がある。何か問題が起こった際、刑務所職員から指導や助言を受けること自体が、人とのつながりなのである。それが、出所するとどうだろう。刑務所と違って社会は管理してくれない。「自由」は時として「つながり」の機会を奪うことになる。

刑務所での生活が人生の中で大半を占めしているAさんにとって、社会に出ることは「自由」となる反面、「何をやっていいいかわからなくなる」という、アンビバレンスな状況となる。

Aさんにとって社会生活とは「無理やり」社会に出ることである。つまり施設での「管理された生活」のほうが慣れている。行き先を決めない一人旅の孤独な自由さと、管理される刑務所という極端な二つの生活にAさんはなじみがある。一方で、それ以外の形での社会生活になじむことが難しい。「何をやっていいかわからなく」なる。将来への悲観の内実は、「何をやっていいかわからなく」なるという不透明感のようだ。(中略)「何をやっていいかわからなくなってくる」という言葉は、Aさんの出所後に当事者研究を始めた別の受刑者からも聞かれた言葉だった。刑務所生活が長い累犯の人たちに共通する悩みだ。(P90-91)

誤解のないように言うが、累犯障害者に対して、何も手立てをしないまま放り出すことはしない。特に近年、法務省が取り組んでいる「特性に応じた指導等の充実」においては、令和4年度に長崎刑務所で開始された「知的障害受刑者処遇・支援モデル事業」を皮切りに、大阪刑務所では発達上の課題を有する受刑者に対して、医療機関と連携した処遇を展開している。また、少年院においても、在院者の年齢や犯罪傾向の程度等から、共通の類型ごとに処遇プログラムを実施するよう努めている。本書でも札幌刑務所でのモデル事業に触れている。

Aさんは当事者研究の中で、盗んだお金の使い道を聞かれた際、「旅行が好きなので、いろいろあちこち回って、1週間に3回か4回飛行機に乗ってたこともある」と答えている。一見癒しや楽しみを求めて旅行に行っているようで、実は「これからどうしよう」という不安からの逃避でもある。社会に出ると考えることが多くなる。住む場所、働き口、金銭管理、人間関係・・・。Aさんの場合、一人旅と刑務所での生活になじみがあるものの、「逃避と管理」以外の事柄が起こると、「何をやっていいかわからなく」なるように不安の極大化が進み、再び犯罪へと舵を切ってしまうのだろう。

本書を読むと、支援者が無理やり当事者のトラウマを呼び起こすことは、当事者の主体性を奪いかねないのではないか、と感じてくる。僕は刑務所での実践として、「犯罪をした背景」「生育歴からの犯罪傾向」「親子関係」など、当事者にとってはあまり触れてほしくないことも、時折質問することがある。言葉に詰まりながら語ってもらえる人もいれば、模範解答のような、反面凸凹のない解答をする人もいる。当事者研究では、トラウマ対処ではなく、自分自身で人生を開いていくような「対話実践」なんだと気づいた。そこに村上さんの言葉が刺さる。

劣等感のなかで、「自分」で主体的に人生をつくり出していくチャンスが閉ざされる。就労や金銭管理も含めて生活をどのように組み立てたらいいのかがわからないがゆえに、そして困難を誰にも相談できないがゆえに犯罪に頼ってしまう。

彼らはどうやって暮らしたらよいのかわらなくて困っている。だから、どうしたらよいかわからないまま出所し社会に放り出されたときに、自然な流れに乗るように、慣れ親しんでいる犯罪へとふたたび身を投じてしまう。犯罪は、『プリズン・サークル』で描かれたようなトラウマに対する衝動的な反応としてというよりも、生き延びるための”自分助けの方法”としてここでは登場していた。(P119)

社会生活の中で、失敗を繰り返す過程で親や他者からなじられ続けると、劣等感は増幅することは想像に難しくない。そうなると「誰かに相談しよう」と言われても、誰に・何を・どう相談したらいいのかわからなくなる。もともと主体的に人生をつくりだそうとする能力はあったにもかかわらず、環境が社会がチャンスを奪い、パワーレスに陥りさせてしまう。

当事者研究では向谷地さんの言葉を借りると、「当事者研究の基本中の基本は、その人が主体的に試行錯誤を始める第一歩、その踏み出しを徹底して大事にする(保障する)ことです」とあるように、語りの中から自分の人生を整理することなんだろうと理解する。どうしたらよいのかわからないことに対して、わからないまま話せる環境と、主体的に整理できるよう徹底して保障されることで、エンパワメントへと向かっていくのだろう。

語りの中から「生き延びるための”自分助けの方法”」を模索していくのは、Social Good Circleにも通じる部分ではないだろうか。Social Good Circleでは、感情や違和感をそのまま表出し、話の「取り留めなさ」が許容される場である。それが対話を進めていくうちに、他者の語りに触発され、自分の経験を重ね合わせていく。そのような「経験の往復」を辿ることで、「違い」や「共通点」が浮かび上がってくるのだ。加えて、結論を出さない代わりに、新たな「問い」を生成する。その「問い」を主軸に、自分の実践や価値観を問い直すきっかけにもつながる。そういうことでいうと、Social Good Circleが当事者研究に通じる部分は、「自分語り」なのだと思う。

Social Good Circleも当事者研究も、自分語りをしていることは理解できる。では、なぜ自分語りができるのか。向谷地さんは「その踏み出しを徹底して大事にする(保障する)ことです」と言う。それはどういうことか。

「反省させる」というところから最初から降りる、と現地のみなさんに最初に言います。(P15)

Aさんの場合は、当初は行為主体をぼかした語り方だったのがだ、途中から行為主体としての「自分」を明示するようになったことが大きな効果だった。受刑者が長年被ってきた孤立と自分の喪失から脱却する力を養う場として、当事者研究の場は活きてくるのだ。(P120)

刑務所に入るということは、「更生」することが求められる。もう二度と犯罪に手を染めないようにするために。そのために刑務所職員や僕みたいな外部の福祉関係者が、時折「犯罪をしないためにこれからどうしますか?」「ここを出た後は犯罪をしないように、自律した生活を送ってください」などと、一見エールに聞こえる声かけも「反省させる」という色彩を纏っていることは否めない。本書を読み、刑務所での当事者研究に触れることで、「反省をさせる」言葉や行為そのものが、受刑者から表出される語りを閉ざしてしまっていたのだろうかと考えさせられた。

自分の人生において、行為主体は「自分」であるということは、刑務所の外で生活している僕らにとって「当たり前」の感覚なのかもしれない。しかし、さまざまな環境下で自分の言葉を閉ざされ続けられてきた受刑者は、当たり前とされている行為主体が「自分」であることに気づかず、また気づいても自ら蓋をする状態となっている。Aさんの場合、それは「孤立」と「自分の喪失」だった。当事者研究によって、問題(トラウマ)を焦点化せずとも、自分語りをするで出所後のこれからの生活を考えるきっかけになったのは、僕にとってこれからの受刑者支援の在り方も、変容の兆しを見出せることとなった。

本書では、受刑者Aさんに対する当事者研究の記録ではあるが、当事者研究は本人の変容だけが得られる効果ではない。1番の特徴は、刑務官が参加メンバーに入っていることだろう。僕の知るところによると、このような医療・福祉的な取り組みに刑務所職員が参加するということは、あまり聞いたことがない。もちろんその場にはいる。後ろの方で。しかし参加するのは珍しいことだと思う。

向谷地さんはオープンダイアローグを軸に、「対話の三角形」を実践している。その実践は「三項関係」と「多声」という言葉で表している。ここに刑務官含めさまざまな職種が入ることの意義が書かれているので、少し引用が長いが着目したい。

三項関係とは、乳幼児の対人関係の発達や社会性の形成を説明するときに用いられる理論で、「自己(子ども)」「他者(養育者・親)」が横並びで「対象(もの・出来事・話題)」を眺めるイメージで説明されている。(P40)

この三項関係は、人間の成長と発達にどのような意義をもっているか。

一つめは、共同注意(Joint Attention)といわれる領域の発達を促すことである。共同注意は、言語の習得、社会的理解、共感性の土台となる。これを当事者研究の場に置き直せば、目の前に置かれた白板をみんなで眺めながら「お題」の内容を考えることによって、「自分の言葉の回復」が促されている状況だろう。

二つめは、他者意識の獲得である。これは、自分の眺めている他者が同じように関心をもっているという認識を促進する。

三つめは、分かち合う喜びや他者との関係の楽しさを実感することによって、情緒的なつながりの深化がもたらされる。また対話の場を他者と共有することによって社会的ルールが獲得され、それは共存意識につながる。こうして自律性と社会性の発達が活性化される。(P40-41)

さらにオープンダイアローグはこの三項関係を発展させ、多くの声が重なり合うこと(多声:ポリフォニー)から生まれる豊かな場の可能性に着目する。つまり、単に「自己」と「他者」が横並びで「対象」を眺めるという三項から成り立つ関係を超えて、家族、当事者、治療者側が対話を重ね、相互に共感し合うような有機的な関係をつくること、すなわち三者関係の重要性に言及している。(P41)

三項関係については、我が子に置き換えて考えてみるとイメージがつきやすい。例えば、子どもが指をさした先が犬だったとしよう。そこに親も視線を向ける。そこに「ワンワンだね」とか「大きいね」と応じることで、単に同じものを見ているだけではなく、”同じ意味づけを共有しようとしている”ことにつながる。そして、他者意識の獲得では、「親が自分と同じものを見ている、親も同じことを感じているかもしれない」という、他者(親)が関心を寄せてくれていることでの、共感や社会的理解の基盤が形成されてくる。これらの三項関係が成熟してくると、単なる認知ではなく「情緒」が動き始める。犬を見つけると「見て見て!」と共有しようとしたり、一緒に笑ったりすることが「分かち合い」となる。

そして「多くの声が重なり合うこと(多声:ポリフォニー)とは、どういうことか。例えば先ほどの犬の話をすると、子どもが犬を見て「こわい顔をしている」と言った際、母は「ほんと、ちょっと怒っているみたい」と合いの手を入れ、一方父は「でも、お腹すいているかもね」と返す。これは「対象を一緒に見て、それぞれの”内面”が可視化される」ことにつながる。それぞれの感じ方がその場に置かれるということは、まさにオープンダイアローグに通じるところだろう。これが相互に共感し合い、有機的な関係性へと反転することを指している。

このような「対話の三角形」の効果が期待されるからこそ、福祉専門職ではない刑務官が参加する意義がある。福祉色が強いメンバーだと、注意しても専門性が出てきたり、一方向的な声にしかならないのではないだろうか。やはりポリフォニーを発生させるためには、三項関係を超えた幅広い多職種が集まることで、結果的に受刑者自身が行為の主体としての「自分」を明示し始めるのだろうと感じる。

ただ、受刑者の変容があるからといって、誰に対しても刑務官を参加させていいとはならない。刑務所は刑務所の合理性が存在する。それについては、本書で当事者研究に参加した、刑務官・Xさんの言葉によって知ることができる。

基本的には本人が当事者研究をやっているからといって、巡回のたびに声をかけたりとかはしないようにしている。そこは「特別扱い」にならないように。単独室で一人部屋がずっと並んでるんですけど、やっぱりそれをやることでほかの受刑者に及ぼす影響ってところを考えると、変にそれをしすぎることはよくないかなと思って、ちょっとそこはあえて抑えてるところはあります。(P142-143)

受刑者たちと同じスタンス、並行なスタンスで(話を聴こう)ってなったときに、スイッチの切り替えがちょっと難しくなる。瞬間的に「とりあえず話を聴こうかな」って思うんですけど、本当は規律を守ったり、周囲に対する抑止力のためにはそれをすべきじゃなかったっていうタイミングがあったりするので難しい。(P148)

Xさんは、受刑者Aさんの変化について、行為の主体として「自分」を取り戻し「頑張りたい」という前向きな意欲が出るようになり、それは語ることで自分で自分のことを整理できるからこそ、対話の場が居場所となり、過去の内省だけでなく未来軸で出所後のことを具体的に考えられるようなった、と刑務所内で実践した当事者研究について捉えている。一方、刑務所は誰かを「特別扱い」する場所ではないとも言う。

特別扱いは「不公平」感を招き、秩序の維持が保てなくなる(恐れがある)。だから、受刑者同士の嫉妬や刑務官に対する態度が変化することへ、刑務所としては敏感なのかもしれない。受刑者の前で名前を名乗らない、ということにもリンクする。Xさんとしては、刑務所の秩序の維持を保つために「話を聴く」ことが、マイナスに働く可能性を危惧している。加えて、刑務官が瞬時に判断を求められる際、「話を聴く」という受刑者たちと同じスタンスからのスイッチの切り替えが、うまく作動しないことにも困難性を抱えていた。

刑務所のような矯正施設は、近年大きく変わろうとしている。2022年6月に成立した改正刑法によって、2024年には受刑者に「さん付け」するよう統一され、2025年6月より懲役・禁錮刑が廃止され、受刑者の個々の特性に応じた指導やプログラムを重視した「拘禁刑」に統一された。

僕の経験と個人的な見解だが、今後刑務所は、ますます「秩序の維持」と「話を聴く」間でジレンマを抱えることになると思う。僕が関わっている某刑務所でも、福祉職がチーム処遇として介入することで、舎房や工場において刑務官へ話す頻度は増えている様子が窺える。刑務官からも「わからないことがあれば聴くから」と、受刑者の心情に寄り添うような声かけを耳にすることもある。ただ、そのような「話を聴く」スタンスが増えれば増えるほど、均等な管理のなかではスイッチの切り替えが難しくなるのだろう。

本書を読み進めると、いくつかの対応策が見えてくる。札幌刑務所のモデル事業では、精神障害をもつ受刑者を一つの居室棟の中で生活してもらい、一括処遇を試みる取り組みを進めている。また、Aさんの当事者研究では、あえて担当刑務官に参加させなかったことで、「不公正」さを可能な限り抑える配慮もあった。このような刑務所側のマネジメントも含め、均等に管理することから、個別のニーズを聴き取るケアへと移行していき、「白黒が明確な瞬間的な管理から、時間を取って聴くケアへ」移行しているのだと感じる。

僕は外部の福祉職として、受刑者や刑務所職員に加え、保護観察所や更生保護施設など刑務所内外に関わる関係者に関わっている。僕は受刑者に対して「犯罪を犯した」という事実は受け入れるも、「反省してもらう」という押し付ける感情は、極力持たない努めている。しかし人間だからこそだが、「本当に反省しているのか?」と規範を内面化している僕の感情がぐらつくときはある。そんなとき、あえて受刑者の話を聴くスタンスに強制的に切り替える。「話したくなければ話さなくていいです」とも伝える。そのときは決まって雑談をしている。自分の話もしながら雑談していると、ふと、受刑者側から話をしてくれるときがある。「本当に話さなくていいんです?」と。

刑務所にいても、地域生活を送っていても、孤独は寂しいものである。そのことを対話を通して自ら腑に落ちるのは、自分の言葉で話すからだろう。そして「対話の三角形」のように、他者との関係性を感じることができる「仲間の存在」が、地域定着へとつながっていけるのだと、本書を読んで感じたことである。

応援してもらえると嬉しいです!

この記事を書いた人

平畑隆寛のアバター 平畑隆寛 ヒラハタタカヒロ

社会福祉士事務所 FLAT代表。アパレルバイヤーから社会福祉士へジョブチェンジした風来坊。普段は成年後見・ケアマネジャー・受刑者支援・まちづくりなどに携わりながら、2026年より兵庫県立大学大学院生で研究に勤しむ。オンラインで支援者が安心してモヤモヤを語れる場「Social Good Circle」を運営し、支援者ケアや専門職の問い直しにも取り組む。

コメント

コメントする

目次