これまでの章『反抑圧的実践のはじめ方・続け方──ソーシャルワークを導くあなたの北極星(2026)』を振り返り、AOPについて当初、靄がかかっていた風景が、まだなんとなくだが晴れてきたような感覚はある。実践現場に向けた本著を読み進めることにより、1章の冒頭で書いた「自分はどこを向いて、誰のためにソーシャルワークをしているのだろうか」という素朴な問いが、本人の声を聴くことへの大切さや「支援者/支援対象者」という関係性を問い直すこと、そして仲間とともに批判的意識化を持続させていくことへと、自己変容していくのが自覚できる。
1・2章では、AOPの概要を知り、批判的意識化を一人で完結せず、本人(当事者)や支援者間での「対話」によって実践していく必要があると学んだ。しかし、この時点での僕の北極星は、「自分の実践に違和感を持ち続けたい」程度だったと思う。それが3・4章に進むと、「本人の声を聴く」というミクロな視点から、「なぜ、この人はこの状況に置かれているのか」と、社会構造に目を向けるようになる。また、関係性についても変化が生じた。「支援者/支援対象者」という関係性に問いを抱き、「僕は、支援関係から抜け出し、支援対象者を『人として出会っているか』」とも考えるようになった。そして、5・6章においては、自らの事例を通して、支援者としての価値や先入観が本人の行動を抑制し、最後には本人の言葉まで奪っていた事実に、直視することで揺さぶられた。また、批判的意識化のプロセスでは、支援関係の構造的位置は変わりにくいにしても、その位置からどのように見るかによって、standpointは変えられることが理解できた。そして、その関係を生み出している制度・組織・社会構造まで問い直すことの重要性も認識してきた。
そのような学びを得て、最後の章へと読み進めていく。僕自身の「北極星」を探す旅も終盤に差し掛かってきた。
7章 つながり労働としてのケア──AOP実践への接続(二木泉)
二木さんが本章で取り上げた、「つながり労働(connective labor)」は、読み終えたあと、ソーシャルワーカーの中でも通じるものがあると感じた。それはなぜか。まずは、感情社会学者のアリソン・ピューによる、ケアと感情に関する批判的な視点に着目して考えていきたい。
ケアの動機や報酬として「愛」を語ることで、ケアが「愛があれば誰でもできる」ものとされ、習得を要する技術としての側面を軽視したり、ケアの責任やそこで湧きあがる感情の管理を個人に押しつけることにつながっていると述べる。(P160)
僕は仕事柄、介護福祉士や看護師と話す機会が多い。また、国家資格を持たないケア労働に従事されている方々の声を聴くこともある。その中で、その仕事に就いた経緯を尋ねた際、「人が好きだから」「人の役に立ちたいから」と、人に向けた『愛』を語られる方が多い印象を抱く。相談援助を生業としているソーシャルワーカーも同じではないだろうか。支援対象者に対して、「愛情を持って接することが大切」と、僕自身誰からか諭された記憶がある。しかし、愛情を持つことに否定の余地はない。愛情がないより、あったほうがいいのは多くの人が賛同すると思う。
一方で、『愛』だけに着目し、「習得を要する技術を軽視し」てはならないのも確かである。支援対象者に対する愛情だけで、今日のケア労働もソーシャルワークもことは運ばない。たとえば、ソーシャルワーカーに着目してみても、優しい声掛けや穏やかな表情、愛のある接し方は大前提で、「いま、この生きづらさの解消をしなければならない」ことや「長期的な展望で伴走する」ことも求められれる。そのためには『愛』に加えて、プロフェッショナルな技術や知識が必要となる。そこを、対人援助職の感情面ばかりに着目し、まして、「個人に押しつけること」につながてはいけないと思う。
では、どうしたら感情以外の側面にも光を当てることができるのだろうか。そこで二木さんは、「つながり労働」という概念をもとに、感情労働を捉え直している。まず「つながり労働」とは何か。
ピュー(2020;2024)は、相手と対面し、関係を構築し、人間としてつながりをつくることが手段や目的となる仕事をつながり労働であると定義し、「人間の最後の仕事(The last human job)であると述べる(Pugh 2024)。つながり労働の場面では、「お互いの認識や省察を通じて、個人的かつ感情的な承認を生み出し、それを共有することによって関係的な価値を生成する営み」がおこなわれると説明する。(P162)
「愛を持って接すること」「支援対象者の感情から次の支援に展開すること」など、感情のやり取りによってお互いを知り、それによって相互作用が生まれる場面は存在する。僕自身も、配偶者の逝去にともない心身ともに塞ぎ込んでしまった支援対象者に対して、面接技術やソーシャルワーク理論を頭の中で組み立てて、教科書通りの画一的な支援をするのではなく、《あえて》感情を表出しながら本人に語りかけたり、本人の感情を受け止めたりすることで、相互にエンパワメントした経験がある。
この経験で大事なことは、感情がすべての事柄を包含していることではないということだ。本人の感情を読み解きながら、でも僕の立場としては感情をコントロールしながら、そのときの本人のケアに沿った感情を表出する。二木さんの言葉を借りれば、「これまでこれらは、『感情労働』として捉えられ、多くの場合、その負の側面(困難さ)に焦点を当てられてきた」のは否めないが、感情から枝葉が分かれるような感覚で、負の側面以外の関係性や社会構造まで俯瞰して見ていくことが「つながり労働」ではないだろうかと捉える。
このように、つながり労働から社会構造を捉え直すことは、AOP理論に通底する。ピューは、つながり労働の概念を明らかにする側面として、①ケアの相互性と感情の承認、②ケア労働をめぐるポリティクス、③複雑な立場性と不平等な構造、の3つを提起している。①と②については、先ほど挙げている事例でも書いている通り、互いの感情のやり取りによってラポールが形成され、新たな価値が生成されることや、《あえて》感情をコントロールすることの意味について考えた。そこで特に着目したいのが、③である。複雑な立場性と不平等な構造を捉えるためには、「単純な二項対立的な構造では捉えられない」と、ピューは述べている。つながり労働から、抑圧された社会構造をどのように見ていくか、下記の引用が参考になる。
ケアの受け手であっても、ケアワーカーであっても、より不平等な立場に置かれた者は、声をあげにくくなったり、物理的、そして精神的に脆弱な立場に置かれることがあるため、より注意が必要である。また、社会制度や政策もケアの内容や質、関係性の構築に影響を与える。(P169)
つながり労働の概念からケアの社会構造を眺めることによって、支援対象者だけではなく、相互関係を形成する支援者としても、「不平等な立場に置かれ」る場合がある。そのような支援者は、本人の語りを聴くことがケアの相互性につながることも、自らの感情を管理しケアの手段として表出することも、困難な状況になってしまう。すると、「やってもしょうがいない」「時間の無駄」と言って、ますます「脆弱な立場」となり、パーンアウトや離職へと陥ってしまう。これらの抑圧された環境から脱し、つながり労働を遂行するスキルはどのようなものだろうか。
このスキルとは、他者の視点を理解する力や感受性などの知覚の鋭敏さであり、ケアの受け手の様子やその言動の意味に気づき、介護実践に活かす力などである。(P171)
5章で取り上げた、支援者の「当たり前」の価値を押し付け、「再犯防止」を錦の御旗として、本人の権利を抑圧していた事例を思い出す。「理解する力や感受性などの知覚の鋭敏さ」は、本人のストレングスであり、僕はそこをアセスメントできていなかった。そして、支援者としての言動や態度によって、本人の「様子や言動の意味に気づ」けていなかった。支援者としての「当たり前」は本人にとって当たり前でなく、その非対称性を是正するためには、まずは本人の声を聴く必要がある。そうすることで、支援者の「正しさ」を問い直し、支援者自身も変容することがAOP実践において大切な行動となる。
しかし、二木さんは「その根本的な原因の一つは、ケアワーカーが低賃金であることだ」と述べている通り、ソーシャルワーカーも含め、決して高待遇とは言えない現状がある。加えて、介護保険や医療保険等の公的制度において、改正ごとに基本報酬に丸めされる加算は増え、生存競争のように業界に生き残るためには、各種加算を得る必要がある。だが、得るものがあれば失うものもある通り、加算のための記録、書類作成に加え、環境整備も必要となる。いっそのこと加算を取らず、ケアの原点回帰を図ろうとすると、自分たちの生活が危ぶまれる。このように、福祉業界は資本主義のもと、他事業所との競争にさらされ、そして自分たちの生活を継続させるためには、つながる労働の概念から遠ざかってしまう法人及び支援者は、少なからず存在すると推察する。
このようにネガティブに捉えてしまう福祉業界ではあるが、7章を読み進めると、少なからず「希望」という光を見つけることができる。キーワードは、「『自信』を取り戻す」と「ケアを通じた癒し」である。誰かの役に立った、間接的にでも励まされた、という経験は、パワーレスに陥っている自分を優しく支え起こしてくれる。そのような経験は、人との関係性によって、相互エンパワメントを巻き起こすのではないだろうか。最後に、二木さんによるまとめを引用する。
すなわちケア労働とは、相手の感情に配慮しつつ、自らの感情も調整・活用しながら信頼関係を築き、その関係を適切なバランスで維持しつつ、刻々と変化する状況に応答していく高度な実践である。(P180)
信頼関係をどう築くかは、やはり本人の語りを聴くことから始まるのだと思う。それをすっ飛ばして、「あなたの言いたいことはこれですね」などと、傲慢的な要約は支援者として言語道断だろう。時には時間を要してじっくり本人の話を聴く必要もあるだろうが、そこに生産性や効率性を入れ込むと、つながる労働には発展しない。僕の指導教員がよく言うフレーズに(僕も気に入っている)、「急がば回れ」がある。多少面倒でも、時間を要したとしても、そこで語られる本人の真の語りは、あなたとの信頼関係だからこそ聴ける内容でもある。そこに特権性は存在せず、信頼という相互交換のなかで承認し合い、新たな価値を生成することにつながるのではないだろうか。
8章 障害当事者が政策立案に参画するための反抑圧的実践──障害制度改革に「中の人」として参加した経験とその省察を踏まえて(茨木尚子)
8章では、平たく言えば、2010年の「障がい福祉者制度改革推進会議総合福祉部会(以下、部会)」に筆者である茨木さんが参画し、その経験をAOPの観点から振り返った内容である。もちろん僕は国の審議会や部会に参加したことはない。よって、本章が遠い話である、というとそうでもない。僕自身、成年後見業務としてケース会議やケアマネジャーとして担当者会議に出席している。また、行政主催の地域ケア会議や審査会など、行政機関が携わる会議にも参加している立場である。それらの経験から本章を読み進めると、「当事者の声をこの場に出せているか」「参加者全員と共通認識を図れているか」「目指すゴール(北極星)について議論を尽くしているか」などと、モヤモヤ考えさせられることがたくさん出てきた。茨木さんとは立場も役割も違うけれども、僕なりの会議体でのAOP実践を検討していきたい。
まず、当事者について。部会開催の背景として、2005年に成立した、障害者自立支援法まで遡る。当時、障害者自立支援法によって、それまで所得や負担能力に応じた「応能負担」だったのが、介護保険と同様の、原則1割負担(応益負担)となった。これについて障害当事者からの反発のもと、抗議活動や訴訟問題へと進んでいく。繰り返し当事者運動を展開することによって、ちょうど政権交代の時期も相まって、部会が開催されることとなった。ここで一旦立ち止まって考えたいのが、当事者運動である。この運動がなければ、部会開催まで至っていなかったのかもしれない。8章を読みながら、当事者運動にはAOPの源流が流れているように感じた。
「制度ができてしまったらしかたがない」であきらめず、「普通の暮らしをするために支援が必要なのに、支援が必要な重度障害の人ほど自己負担が大きくなることは平等なのか。それを応益というには障害者の権利を侵害するものだ」という主張を、支援者とともに訴え続けた当事者運動があったことが、その後の当事者主体の制度改革につながったといえる。おかしいことはおかしいといい続けること、それはかえられないものを変えていくための大事な活動なのだと改めて思う。(P196)
ケアマネジャーとして関わっているBさんは、重度障害を抱えているが、自宅で一人暮らしを続けている。介護及び障害サービスを併用し日常生活の支援を受け、趣味活動や息抜きのためにヘルパーとともに外出もしている。特に贅沢をしているふうに見えない。外出は本人にとって息抜きであり、これからも生きていくための「生きづらさ」に対するリセットの意味も含めている。そのような中、路線バスの減便が相次いでいる。そして、障害区分認定や要介護認定の軽度化が時折起こる。Bさんは言う。「ただ単に、みなさん(健常者)と同じよな生活をしたいだけ。でも、外出するための移動を制限され、生きるための権利(サービス利用の抑制)も奪われると、障害者になってしまったことを恨むときがある」と。
このような生きづらさを抱えている障害者の方々は、僕の想像を超える数が存在するだろう。だからこそ、当事者運動は必要であり、おかしいことが起こると、声を挙げ、運動を続けていかなければならない。そこで、中西正司・上野千鶴子『当事者主権 増補新版』(2024)を思い出す。「自分のことは自分で決める」という当事者主権は、専門家や制度によって一方的に決められてきた「当たり前」に対して、当事者自身が声をあげ、仲間とつながり、その声を社会へと開いてきた歴史がある。「おかしいことはおかしい」と言い続けることは、個人の訴えにとどまらず、それまで変えられないと思われていた制度や社会の「当たり前」を問い直す力となる。そう考えると、当事者運動そのものが、抑圧を可視化し、当事者とともに社会構造を変えていこうとするAOPの実践なのだと思う。
当事者が会議体の中に入ることは、当事者の声を聴くことだと考える。その声を参加者全員が聴き、考え、将来ビジョンをともに検討することが求められる(部会では2名の知的障害者が選出された)。そこで、部会が目指した北極星はなんだったのか。
部会における目標は権利条約19条に示された「地域において障害のない他の者との平等のもとに自立した生活を自ら選んで暮らすことができる権利」を新法に反映させることであり、それがめざすべき北極星であった。(P200)
さらに、その北極星を具体化するための心得についても、茨木さんは示してくれる。
具体的には、その制度政策がめざす社会のありようはどのようなものなのかを皆で共有し、そのために法律、制度の何をどう変えていくべきかを考えることが会議のミッションである。どう変えるかの前に、なぜ変えねばならないのかを、皆が共通認識としてしっかりもつことが必要となる。(P201)
部会では目指すべき北極星を自覚して、会議に参加していたようだ。僕が参加する地域ケア会議やケース会議においても、規模は小さいながら、目指すべき北極星は会議の冒頭に確認し、合意形成を図っていることが多い。しかし、議事が進むにつれ、「なぜ変えなければならないのか」から、「どう変えるか」という、改変ありきの議論にすり替わっていることも多々ある。その理由として、会議の成果として、何らかの提言や成果物等の可視化したものを提示することが求められるのも一つだろう。また、次の改変につながるような(たとえば、当事者の声を反映したなど)中間的な取りまとめもあるかもしれない。しかしながら、冒頭の「なぜ変えなければならないのか」を忘れた議論は、なんのために会議を開催しているのか、なんのために当事者の声を聴いているのか、そして目標としている主体は誰なのか、を見失っていないだろうか。僕は時折、そのようなジレンマに陥り、モヤモヤすることがある。
部会だけでなく、僕が経験した会議においても、意見の対立は多々起こる。それは立場の違いがあれば当然のことでもある。しかし、「対立し、意見が折り合わず、もう終わりましょう」というわけにいかない。これについて茨木さんが、AOPの視点から説明してくれる。
AOPでは、Critical Hope(批判的希望)を実践の要素として重要視している。単なる希望、夢物語ではなく、厳しい現状や不条理な状況を変えるために、皆が認めあえる将来像にむかい、実現にむけて建設的な批判を含めた多様な意見を出し議論を重ね、その方向にむかっていくことこそ、制度改変の基盤となる。(P202)
「絵に描いた餅」ではなく、希望を掲げ変化を起こすためには、「建設的な批判を含めた意見を出」すことが求められる。障害制度改革も地域ケア会議も、規模は違えど、そこには「何らかのCritical Hope(批判的希望)」が存在する。立場としての希望が通らないときもあるだろう。しかし、そこで引っ込めるのではなく、希望に向けた道程をどのように築いていくか、将来像を参加者とともに共有し、合意形成を図っていく働きこそが、Critical Hope(批判的希望)なのではないかと考える。
また、意見の対立について、家族の思いが抑圧された社会構造の一片なのだと、ひしひしと伝わる部分がある。
「地域での暮らしがずっと続けられれば一番いいのは当たり前です。でも親が年をとり、子どもの面倒をみられなくなったら、それはもう施設しかないという状況は今も続いているし、これからだって財源がかぎられている障害者福祉のなかで、重度の人を支える手厚い地域支援体制にはかえられないでしょう」と、会議が終わった後、委員の一人から強くいわれたことを記憶している。(中略)知的障害の本人も、家族も、これまで地域での当たり前の暮らしを実現できずに、社会の抑圧を受けてきた当事者である。本人と家族の両者の思いが分断され、相克関係が生まれ、あるべき方向性がまとまらないことにより、いったい誰が得をするのだろうか。(P209)
知的障害当事者は「脱施設」を訴え、その家族は「施設が将来的に安全」と主張する。この二項対立構図をありのまま受け取り、どちらかの鉾に収めようとするならば、さらなる対立と分断を招くことになるだろう。そうではなく、これまでの障害福祉政策を辿ると、どちらも「社会の抑圧を受けてきた当事者」なんだと理解し、さらなる分断を煽るのではなく、抑圧された社会構造へと視座を高め、将来的で建設的な議論を進めることが必要だと考える。そのためには、異なる意見を出し合うことが重要であり、目指すべき「北極星」を共有した上で、進み続けられる取り組みが求められる。
最後に、このような会議体でのAOP実践をまとめているので引用する。
どうしても、目の前の困っている個別の課題を解決することのみ目がむきがちである。一方で、それを解決するために、視野を広げてその地域のあるべき姿を描くこと、何を変えるべきかを確認すること、それを皆で共有することが、AOPのスタートラインになる。そして、そこから立場の異なる当事者間の意見を対立や葛藤を恐れず出しあい、お互いの言い分を聴くこと、その対話のなかから理想にむかう道筋や戦略を考えていくことの積み重ねが、結果として今ある仕組みを変えることにつながるのではないだろうか。こうした検討過程は国レベルでも、地域レベルでも同様だと思う。(P214)
すとんと腑に落ちる。8章を読んですぐ、「国レベルの会議体の経験が、僕のような立場の人間にわかるだろうか」と恐る恐る(いや、慎重に)読み進めていった。だが、そのような不安はすぐ一蹴する。国レベルでも地域レベルでも、当事者の声を聴くことには変わりなく、それでも意見の対立は起こるもの。そこから目を逸らさず、「何を変えるべきかを確認」し、「皆で共有すること」がAOPのはじめの一歩である。このように理解を深められたことで、今後は、それぞれの会議体での進行や意見を誰に向けて発するのか、その意見は皆で共有した北極星を目指すものなのか、そのようなことを念頭に置いて会議に参加したいと思う。
ここまで読み進めてきて、僕なりの「北極星」が少し見えてきたように思う。それは、本人の声を起点に、自分の「当たり前」や「正しさ」を問い続けることである。ただ、それを一人で続けることは難しい。だからこそ、Social Good Circleで大切にしてきたように、支援者同士が評価や正解を求めず、それぞれのモヤモヤを安心して語り、対話する場が必要なのだと感じる。他者の語りに揺さぶられ、自らの実践を問い直す。その変容が、本人との関係性や支援のあり方を変え、さらに組織や制度、社会の「当たり前」を問い直すことへつながていくと信じている。本人の声を聴き、仲間と対話し、ともに変わり続けながら、誰もが自分らしく生きられる社会へ向かう。それが、僕が目指す北極星なのだと考えた。


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