『反抑圧的実践のはじめ方・続け方』を読む③──その「正しさ」はどこから来るのか

AOP(Anti-oppressive Practice/反抑圧的実践)をはじめて知ったのは、前著の『脱「いい子」のソーシャルワーク──反抑圧的な実践と理論』(2021)である。前著ではAOPの概論にはじまり、著者それぞれの経験を交えながらAOP実践を問うものとなっていた。その中で、4章を執筆された市川さんの言葉が、当時共感を抱いたことを覚えている。

恥ずかしながら私がAOPに対して最初に感じたのは、「素晴らしい理論だけど、私のいた職場では無理だなあ」という、一歩引いてしまったものであった。本来のソーシャルワーカーの職業理念に忠実であれば当然求められる姿勢でありながらも、自分が社会福祉士として勤めていた「スーパー保守」の市役所でAOPを実践するところは、正直イメージがつかなかった。(脱「いい子」のソーシャルワーク──反抑圧的な実践と理論(2021)P093)

正直に言えば、僕も前著を読みながら、「言っていることは理解できる。社会福祉士の倫理綱領にも同様の文言は存在する。しかし理想的な実践ではないだろうか」と悩んだ。社会福祉士の多くが何らかの組織に属しており、実践の向き方は組織の論理に左右されることが多い。そもそも介護保険や障がい福祉など、国が定めている報酬体系によって私たちの給与が支払われている以上、行政など特に「スーパー保守」の職場では、「ちょっとおかしい」と言うことさえ憚れるのも理解できる。

前著に対してそのような感じ方を抱いていたのだが、今回の『反抑圧的実践のはじめ方・続け方──ソーシャルワークを導くあなたの北極星(2026)』では、まさにタイトル通り、実践者がAOP実践を展開する上で、「どんなことからはじめられそうか」「上手くいかなかった際はどうしようか」といった内容で、実践者がイメージしやすい内容であると感じた。本著の1〜4章までは、AOPの基本概念を実践者側の葛藤とともに示してもらい、著者それぞれの実践を紹介しながら体系的に学ぶことができた。

目次

5章 北極星を見失った人たちへ ──違和感を出発点とするAOP(坂本いづみ)

そのような流れで、5章まで読み進めてきた。5章の冒頭、6つの問いかけからはじまる。

問1 今日の支援のなかで、どんな違和感や「モヤモヤ」を感じたか?

問2 既存の価値観に「はて?」と立ち止まれているか?その理由は?

問3 自分の北極星はまだ見えているか?

問4 心・頭・行動を統合するにはどうしたらいいか?

問5 今日、自分自身をケアできたか?(セルフケアの確立)

問6 AOP実践をし続けるために自分に必要なことは何か?

(P118)

この問いを眺めてみて、僕はどの程度AOP実践ができているのだろうか、いや、そもそもAOPの視点を持っているのか、自身の実践を振り返ってみた。すると、僕自身のひっかかりは、「問1」「問2」「問6」だった。それぞれ言葉にしていきたいと思う。

僕が今日の支援のなかで感じる「モヤモヤ」は、「本人のために」と考えて行う支援が、本当に本人のためになっているのだろうか、という問題意識を抱いている。もちろん自戒も込めてだが。支援者(定義を狭めると専門職か)には、制度や専門知識に基づいて状況を整理し、より良い支援を考え実践することが求められる。しかし、その「より良い」という判断そのものに、支援者自身の価値観や「こうあるべき」という正しさが入り込んでいるのではないか。本人の意思を尊重しているつもりでも、知らず知らずのうちに支援者が選択肢を狭めたり、本人を「支援される人」として固定的に捉えたりすることがある。一方で、支援者自身も迷い、揺れ、本人との関わりを通して変化しているのも事実である。

では、支援者としてこれからどうしたらいいのだろうか。これまで本著で繰り返し学んでいることだが、坂本さんの言葉を借りると以下の通り。

すなわち、自身がどのような環境で何を「当たり前」として育ち、現在の職場や専門領域で何が「当たり前」とされているのかを、問い直す作業が求められる。(P120)

僕が関わっているある支援対象者は、支援開始当初、ライフラインが停止している状態だった。まずは「生命保護と生活再建」という目標をを本人とともに掲げ、なんとか安全に日常生活を送れるようになった。しかし、本人が起こしたある事件をきっかけに僕は、「再犯防止」へと目標がシフトする。その目標と本人の行動は相反することが多く、しかし「再犯防止」は支援者間での「正義」となっていた。すると、本人からは「平畑はお金を管理する人」「交渉相手」との認識を持たれ、本人の発言や行動は従順化していった。そのような関係性に違和感を抱き、職能団体のスーパービジョンを受け、自らが起こしている抑圧的な支援という膿を出す試みを行った。このような批判的意識化のもと、パターナリズムによる抑圧構造に気づくことができた。

当時を振り返ると、本人に対するパターナリズムは、「再犯防止」という正義が支援者論理の「当たり前」となっていた。そして恐ろしいと感じたのは、本人を取り巻く支援者チーム全員が「再犯防止せねばならぬ」という錦の御旗を掲げ、本人の行動を抑制し、終いには本人の言葉(真意)さえ奪っていった。これら一連の経緯を踏まえ、支援者チームで話し合う機会を設けた。「僕たちの当たり前は本人にとって当たり前ではない。まずは本人の声を聴こう」と。支援を実践する側に立つと、その場で展開されている事実を客観的に見渡すことができない場合がある。だからこそ一旦立ち止まり、自分自身の「当たり前」を問い直す必要がある。そのためには支援者間で検討することも必要だが、可能なら第三者とともに俯瞰的に眺められる環境が、支援者には求められるのではないか、と考える。

坂本さんのエピソードでも、電動車椅子に乗った女性がミニスカートを履いているのを見て、違和感を感じたとあった。それはなぜか。

なぜそのように感じたのかを後から考えたとき、筆者は「体に麻痺があって車椅子を利用する人は、着脱しやすいジャージのような服を着ているはずだ」という無意識の前提を自分がもっていたことに気づいた。つまり、現実とズレているのは相手ではなく、自分の側にある固定概念である。(P122)

僕が支援者側として抑圧していた事例についても、同じようなことが言えるのだと思う。「再犯防止」は支援者として当たり前で先見事項であり、それは本人にとっても同等の価値であろうと決めつけていた。しかし本人にとっては当たり前ではないし、逆に「押さえつけてくる者たち」と映っていた。僕も含め、支援者の固定概念は非常に権力性を帯びている。そして、2章で市川さんが示していた、支援者による暴力性は、ここで取り上げている事例に当てはまりすぎて、スーパービジョンを受け浄化しているにも関わらず、いまだに胸がチクチク痛い。そのような支援者としての「歪んだ正義」はどこから来るのか。そもそも支援者個人の問題なのだろうか。そのように自責の念に苛まれ、ソーシャルワーカーを辞めていった仲間は多い。しかし、坂本さんの以下の言葉に救われる。

実践者が直面する困難の多くは、「制度を守ること」と「目の前の人々の意識を守ること」の緊張関係から生じている。この緊張を個人の葛藤に押し込めてしまうこと自体が、日本の支援構造の特徴でもある。(P124)

支援現場において、「生きづらさ」を抱えている人たちへの実践は、時に危機介入として待ったなしの場面がある。一方で、そもそも「生きづらさ」を抱えてしまう社会的構造の問題も存在する。これは、支援者にも同じことが言えるのではないか。「目の前の人々の意識を守」りながら、「制度を守る」ということは、支援者は心理的な板挟みになり、ポジショニングが難しくなる。だからどちらかに寄っていくのかもしれない。僕の事例では、明らかに「制度を守ること」に傾斜していた。だからといって、個人(支援者)の葛藤に押し込めばいいということではない。支援者の中には、そのような構造が存在することを自覚するだけでも、ふと立ち止まる契機になるのではないだろうか。

自覚するまでに「はて?」と立ち止まることが必要となる。そして、深い批判的意識化によって、「変容を促す揺さぶり」が生じることを坂本さん問いかけてくれる。

AOPにおける「変容を促す揺さぶり」とは、単に制度や常識に問いを投げかける行為ではない。それは支援者自身の批判的意識化の不十分さが露呈するときに生じる「痛みを伴う気づき」であり、内面を揺さぶられる経験を通じて意識の転換を促す過程である(坂本ほか2021;42-45)(P126)

たとえば、自分が「当たり前」と考えていた言動が、相手にとっては排除や抑圧になっていたことに後から気づく瞬間がある。この衝撃や羞恥心は支援者にとって大きな「揺さぶり」となるが、同時に深い批判的意識化と自己省察への出発点となる。(P126)

僕がまさに体験した内容である。僕の中では「再犯防止」が正義であり当たり前だった。それを一から振り返り、本人と支援者との関係性を紐解き、存在する抑圧的な実践を炙り出す過程は、「痛みに伴う気づき」が多くあった。何が痛いか。自分自身で変容させていく過程だったのかもしれない。自分でもスーパービジョンを受けようと思った時点から、自身の支援内容が抑圧的であり本人の主体性を奪っていることに気づいていた。その中で、事例における抑圧構造を言語化し、支援者としての倫理性の歪みを見つめ直し、変容するための行動を模索する過程は、やはり揺さぶられるものがあった。しかし、だからこそ、いまこうして文章に記すことが可能だろうと考える。

このように、AOPにおける批判的意識化は「痛みを伴う」場合がある。かといって自責の念に苛まれる必要もない。常に支援者としての立ち振る舞いを律することは、バーンアウトを引き起こすかもしれない。5章の最後に支援者としての希望を述べている。

筆者自身も、AOPを完成形ではなく未完のプロセスとして捉えることや、自分自身や自分(たち)の実践に不完全さを受け入れ、互いに支えあう文化を育てることを肝に銘じている。(P134)

支援者が「正しく」あろうとすればするほど、その「正しさ」を支援対象者へ転嫁する危険性を孕む。ちょうどいい抜け感が、逆に支援対象者とのラポールを形成でき、その後の支援が充実することもある。僕が実施している「Social Good Circle」も「正しさ」は求めていない。そのような環境で対話できる仲間の存在も必要だと、坂本さんは示している。AOP実践は、個人と社会構造の変容を促していくと同時に、継続性を担保するためには「仲間づくり」がポイントなのだと学んだ。まだぼんやりとだが、僕が目指す「北極星」が見えてきたような気がする。

6章 批判的意識化とはなんだろうか?(竹端寛)

5章では、自らの事例をもとにAOP実践を検討した。そこで明らかになったのは、支援対象者と支援者との認識のズレが生じた際、支援者側の権力性を掲げ、「問題行動」などとラベルを貼ってしまいがちであること。そのような思考に陥る構造とは、支援者自身が内在化している「当たり前」という価値観や「正しさ」への規範性なのだと考える。

そこで「批判的意識化」によって、時には痛みを伴う「変容を促す揺さぶり」が必要となる。支援者を基軸に個人の置かれている環境や関係性、さらに社会構造のなかで支援者という枠組みを問い直すことが、AOPにおいて重要となる。それについて、竹端さん(大学院の指導教員だが、ここではあえて「さん」付けとする)の言葉を引用する。

つまり問われるのは、支援者が己や自分の働く組織の「影」とむきあうことができるかどうか。自分自身が当たり前の前提としていた認識枠組みを問い直せるかどうか、である。そして、それを可能にするのが、AOPが大切にしている批判的意識化(critical consciousness)である。(P147)

1章から示されている「批判的意識化」。当たり前と思うことを一旦立ち止まり、問い直すことが必要と説く。しかし、「批判的意識化を継続する困難さ」も同時に孕んでいる。5章で取り上げた事例についても、僕自身の中で本人との関係性が歪み、パターナリズムになっていることへのモヤモヤを感じ取ったことによって、スーパービジョンを受けるに至った。そのモヤモヤを抱かなかったら、今でもパターナリズムの歪んだ関係性を続けていたかもしれない。しかし、そこに自ら気づくことは、毎回できるとは言い難いだろう。いったい、批判的意識化とはどういうものなのか。実践場面でどのように捉えればいいのか。そこで、竹端さんが批判的意識化のプロセスを解き明かしている。まず出てくるのが、3つの言葉である。

  • identity:ある個人や集団がもつ、他の人びととは異なる特徴や態度であり、社会関係や文脈のなかで意味付けられる。
  • positionality:identityを構成するカテゴリー(男性や障害者など)が社会構造や権力関係の中で位置付けされる。
  • standpoint:社会的位置と経験を通して形成される、世界の見え方や認識枠組み。

僕の場合、identityは男性であり父であり社会福祉士である。ほかにも様々なカテゴリーによってidentityが構成される。そして社会構造によって、社会福祉士としての僕のpositionalityは、「支援する側」としての概念が生成され位置づけられる。それは、支援対象者との出会によって、「支援する・される」というpositionalityの具体性が増す。ここまでは、なかなか変えられない関係性なのかもしれない。大事なのは、standpointの変容を模索することだと竹端さんは示す。

ただ、支援者と対象者がどのように関わるかによって、お互いの認識枠組み(standpoint)は、既存の理解を強化する方向にも働きうるし、批判的意識化を契機として再構築され、支援者と対象者の相互変容をもたらす可能性もある。(P148)

「認知症でお金の管理ができない」「再び犯罪を起こすかもしれない」というレッテルを貼ることは、「『支援する・される』という非対称な構造的位置」によって、パターナリズムの拡大を加速化させる。一方で、「本人は自らの苦しみを言葉にして表出できる」「何らかの支援によって本人主体の金銭管理ができるかもしれない」と、本人のストレングスをアセスメントし、可能性を信じ実践することで、支援者と対象者の相互変容をもたらすことにもなりうる。

竹端さんは文中で、刑務所内での「当事者研究」を取り上げている。僕も以前、ブログに書いたことがある。そこでは、犯罪を繰り返す人たちへの支援について、「反省させる」という支援者側の認識枠組みそのものを問い直した。そのことと上記の批判的意識化のプロセスについて検討してみる。

刑務所という場では、「犯罪をした人」と「更生を支援する人」という立場が明確になりやすい。これは、まさに「支援する・される」という非対称な構造的位置である。僕自身も支援者として、「犯罪をしないためにどうしますか」「自律した生活を送るためにどうしたらいいですか」と問いかけてきた。しかし、それは本人のための問いであると同時に、「犯罪をしたのだから反省し、再犯しない人にならなければならない」という、支援者側の「正しさ」を前提とした問いでもあった。

当事者研究では、支援者が本人の問題を分析して答えを与えるのではなく、本人自身が自らの生きづらさについて語り、周囲の人と一緒に考えていく。「なぜ犯罪をしたのか」「どうしたら再犯しないのか」と支援者が答えを求めるのではなく、本人が「わからないことを、わからないまま」語ることのできる関係をつくっていく。ここで変化するのは、支援対象者だけではない。「犯罪をした人だから反省させなければならない」「支援者だから本人を正しい方向へ導かなかなければならない」という支援者自身の認識枠組みも、本人の語りに触れることで揺さぶられる。僕が当然だと思っていた「支援者としての正しさ」が、本当に本人のためになっているのか。むしろ、その「正しさ」によって、本人が語ることのできる範囲を狭めてはいないだろうか。

こう考えると、批判的意識化とは、単に「自分の支援を振り返る」ことではないように感じる。自分がどのようなidentityをもち、社会構造や制度のなかでどのようなpositionalityに置かれ、そこからどのようなstandpointを形成しているのか。その「当たり前」を、本人との関係性のなかで問い直していく。そして、本人を一方的に変えようとするのではなく、本人の語りによって支援者自身も揺さぶられ、変容していく。

刑務所での当事者研究について書いたとき、僕はそれを「支援者が話を聴くこと」の大切さとして捉えていた。しかし、AOPを学ぶ中で、少し違った見え方をしている。それは、聴き方や支援者個人の姿勢だけの問題ではなく、「犯罪をした人・更生させる人」という非対称な関係を生み出している制度や社会構造そのものを問い直す実践だったのではないかと考える。

刑務所内での「当事者研究」を批判的意識化のプロセスから捉えると、「反省させる」という僕自身の認識枠組みは、「犯罪をした人」と「更生を支援する人」という非対称なpositionalityのなかで形成されたstandpointだったのではないか。そして批判的意識化とは、その「当たり前」や「正しさ」を問い直すだけではなく、組織や制度、社会構造にも目を向け、抑圧を生み出す構造そのものを変えていく実践へとつなげることなのだと思う。

「問題行動」や「困難事例」にアプローチする際に特に重要なのは、共感できない自分自身をも観察しながら、相手の内在的論理を観察し理解することである。そして、その理解の先で、排除されてきた人びととつながり直すことができる。(P156)

批判的意識化のプロセスでは、「個人レベル」と「社会構造レベル」との2つが存在する。個人レベルにおいて、「犯罪を繰り返す人」「浪費を続ける人」という生の私としても共感できない事象を、「それはダメ」と断罪するのではなく、自分自身に内在化されている共感できないモヤモヤを観察しながら、どうしてそのような行動を行うのかという、相手の内在的論理を探って、そして教えてもらうことを通して、批判的意識化へとつながっていく。また、そのようなプロセスは、個人だけの問題にとどめず社会構造にも目を向けることで、AOPの広がりへと発展する。こうした個人と社会構造の双方を問い続けるプロセスが、AOP実践における批判的意識化なのだと理解した。

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この記事を書いた人

平畑隆寛のアバター 平畑隆寛 ヒラハタタカヒロ

社会福祉士事務所 FLAT代表。アパレルバイヤーから社会福祉士へジョブチェンジした風来坊。普段は成年後見・ケアマネジャー・受刑者支援・まちづくりなどに携わりながら、2026年より兵庫県立大学大学院生で研究に勤しむ。オンラインで支援者が安心してモヤモヤを語れる場「Social Good Circle」を運営し、支援者ケアや専門職の問い直しにも取り組む。

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