僕は社会福祉士として仕事を始めて、2026年で13年目。医療機関のソーシャルワーカーからキャリアをスタートさせ、介護老人保健施設、地域包括支援センター、独立型社会福祉士事務所と渡り歩いてきた。分野も対象者も変化する中で、僕自身のソーシャルワークへの志やアイデンティティはどうだろうか。業務過多となり、効率性や合理性を優先するがあまり、支援対象者の声を聞き逃していないか。
また、連携のしやすさを重んじて、いつのまにか意見も言わず、波風を立てずに過ごそうとしていないか。
ふと立ち止まって、このようなことを考える。「自分はどこを向いて、誰のためにソーシャルワークをしているのだろうか」と。そんな中、坂本いづみ・茨木尚子・竹端寛・二木泉・市川ヴィヴェカ・笠原千絵(2026)『反抑圧的実践のはじめ方・続け方──ソーシャルワークを導くあなたの北極星』現代書館.に出会う。
読み進めると、この本は、ソーシャルワーカーが日々の実践のなかで感じる「違和感」を手がかりに、支援の背後にある権力関係や社会構造を問い直すための道標になるのではないか、と感じるようになった。
「制度上そうなっているから仕方がない」「組織の決まりだから」「専門職としてこうするべきだ」と単一的な思考に陥るのではなく、「なぜ私はこれをおかしいと感じたのか」「誰の価値観によって、この『正しさ』はつくられているのか」「この支援によって、誰の声が聞かれ、誰の声が聞かれなくなっているのか」と、自身の違和感から辿っていく思考こそが、AOP(反抑圧的実践)の出発点の一つであると理解する。
今回のブログでは、ソーシャルワークの実践者として、本書をじっくり読んでいき、僕なりに解釈していきたいと考える。日々の違和感を大切にしながら、批判的意識化をどのように実践場面で反映させればいいのか。そして、僕自身のソーシャルワーカーとしての「北極星」はどこにあるのか。読みながら感じたことを率直に語っていきたいと思う。構成としては、4つに分けて書いていく。まずは、1章と2章について。
1章 反抑圧的実践(AOP)とは何か──「北極星」へ導く視座(坂本いづみ)
そもそも「AOP(反抑圧的実践)」とはなんだろうか。1章を書いた坂本さんは、「AOPは、社会正義を基盤とするソーシャルワークのアプローチで、個人支援にとどまらず、社会構造の変革をめざす(P13)」と書いている。坂本さんは、過去30年以上にわたるAOPの理論化と実践の蓄積をおこなってきた。
僕も含め、「AOPとは何か?」とまだイメージできない読者に向けて、1章ではAOPを「抑圧の歴史と構造的理解」、「批判的意識化とインターセクショナリティ」、「当事者(運動)との連携・協働とアライシップ」、「仲間をつくる、仲間とつながる」、の4つの概念・視点から示している。
まず1つ目が「抑圧の歴史と構造的理解」である。正直、はじめてAOPという言葉を聞いたとき、「社会変革に向けたマクロ的スローガン」ではないかと捉えていた。しかし本書を読むと、それがいかに飛躍した解釈だと気づく。
「AOPの出発点の一つは、現代社会における不平等や排除が、偶然や個人の問題によって生じているのではなく、歴史的・構造的な背景によって生み出され、維持されているという理解である。(P15)」
まずは歴史と構造を知ることからはじめる、とある。それは従来の「当たり前」とされている価値観や過去に抑圧されていた(されている)人々に目を向けるということだ。SNS等で流れてくる情報を鵜呑みにせず、抑圧の構造を俯瞰して捉えていくことが重要となる。そしてそのような構造は、歴史的背景が関係していることも理解しておく。しかし、過度な疑いや何もかも疑心暗鬼になるのは生きづらい。では、どうしたら歴史的・構造的な背景を俯瞰して捉えることができるのか。それは2つ目の視点としての、「批判的意識化とインターセクショナリティ」が関係する。
「批判的意識化」とは、ブラジルの教育者『パウロ・フレイレ』が提唱した概念である。
「AOPにおいては、支援者自身が自らの社会的立場や影響力を認識し、無意識のうちに抑圧を再生産していないかどうかを問い直すことが求められる。(P16)」
これを読んで思うこと。それは、支援者による影響力を無自覚のまま対象者と接していると、その支援対象者は時に抑圧され、ますますパワーレスに陥ってしまう。僕が関係する支援対象者の中には、生まれた場所、容姿によってとても辛く長い差別を受けてきた人がいる。救いを求めたこともあった。誰かに抑圧で押し潰されそうな現状を打開してもらいたいとも願った。しかし、頼りにしていた人から悲しい声を浴び、次第に誰も信用できなくなっていった。長い間社会から抑圧され続けてきたことにより、その人は、生きることさえ諦めていた。
そのような中、僕は出会い、当初一つひとつの言葉に緊張感が伴っていた。そしてたくさん傷つけた、と思う。僕の中では「当たり前」の前向きな言葉でも、その人にとっては前向きではないし、むしろマジョリティ側の言葉として抑圧していたのだと回想する。
その人とは今も関係性が続いている。当時に比べると良好だと言える。なぜなら、僕は支援者としてその人の歴史や構造的課題を知ろうとしていったからだと考える。無意識に自らが抱く、その人に対する偏見やレッテルを捨て去ることも行なった。「支援者」としての規範性は横に置き、まずその人を知るために、対話を続けた。「批判的意識化」とは、支援者自らが一人で継続させていくには困難性を伴う。
僕の解釈では、「意識化」に加え、「対話」を行うことで互いの経験や考え方を持ち寄り、問い合うことで「批判的意識化」を実践できるのではないかと捉えている。
当然ながら対話は一人では難しい。上記のように当事者と語り合う中で、「批判的意識化」が僕の中で形成されてきたように思う。坂本さんは、AOPの基本概念・視点の3つ目として、「当事者運動との連携・協働とアライシップ」を挙げる。
当事者による運動や活動は、ソーシャルワークにとって関係ないとは言えない。社会福祉に関するさまざまな法律や制度及びサービスなどの社会資源には、当事者運動によって形作られたものが多い。過去を振り返ると、戦後しばらく、障害者は保護や治療の対象として施設収容が中心だったが、1970年代の「青い芝の会」によって、「障害者自身を一人の人間、権利の主体として捉えること」を社会に訴えた。その流れは医学モデルから社会モデルへの転換へと向かい、障害者権利条約の批准や障害者差別解消法の制定へとつながっていく。
当事者運動を知ることは、社会の中で、支援者はどのような立ち位置にいるのか、誰に何の実践をしなければならないのか、これまでの当事者による活動が語りかけてくれるようにも思える。このような当事者運動の連綿を知り、そして支援者として「関わる」という具体的な行動によって、AOPにより視野が広がっていく。
「AOPは支援の枠内にとどまらず、社会運動と日常実践をつなぐ役割を担っている。その中核にあるのがアライシップである。(P22)」
「アライシップ」とは、当事者でない者が連帯して差別や抑圧をなくすための行動をすることを指す。短絡的に考えてはならないのは、単に「理解してあげる」「支援してあげる」ということではなく、自らが持っている社会的特権に気づき、当事者の声を中心に据えながら、ともに社会や制度を変えていく姿勢が重要である。
たとえば、障害者から「この制度は利用しにくい」という声があった場合、ソーシャルワーカーが「制度上仕方ありません」と説明して終わるのではなく、まずその経験を聴くこと。そして、「なぜ利用しにくい制度になっているのか」「誰の視点で制度設計されているのか」を当事者とともに考え、必要であれば組織や制度へ働きかけることが、AOPによる取り組みだろうと考える。加えて、批判的意識化のもと、当事者が置かれている環境を批判的に捉えることと、支援者自らが置かれた環境も批判的に見ていく必要がある。環境によっては、社会的特権が当事者への差別の再生産にもつながってしまう場合もあるからだ。常に支援者の立ち位置を点検する必要がある。
とはいえ、一人で支援者としての立ち位置や置かれた環境を点検するには、常に自らを律していなければならないのではないか。・・・僕はできそうにない。そこで、4つ目の視点として「仲間をつくる、仲間とつながる── 一人でやらなくていい」が登場する。
「AOPは、一人でやろうとしても続けられない。ともに考え、迷い、時には意見の違いを抱えながらも、大きな目標にむかって連帯できる仲間の存在が、実践を持続可能にする。だから、モヤモヤする気持ちを言葉にして共有したり、社会構造の歪みや抑圧について話しあえる仲間をつくっていくことが必要だ。(P24)」
僕は毎月、インターネット上(zoom)で全国の支援者同士が集まり、自らの実践でモヤモヤしたことを語り合う場を開催している(「Social Good Circle」という)。Social Good Circleでは、単なる愚痴の言い合いでも傷の舐め合いでもなく、モヤモヤを語る人へ自分がどう感じたかフィードバックし、対話の中からソーシャルワーカーのアイデンティティを取り戻したり、「当たり前」や「正しさ」という規範性からの脱却へとつながる場面もある。この場では誰も否定しない。一方で、「批判的な意識」は抱きながら語り合っている。そのような意識化で集うSocial Good Circleは、AOP実践の一つなのかもしれない。
1章の最後として、印象深くそして共感できる箇所があったので、少し長いが紹介する。
「AOPの究極の目標は抑圧の撤廃だが、達成困難な理想のために、実践者が疲弊するリスクがある。また、マクロ視点に重点を置きすぎることで、当事者が直面する具体的な問題解決が後回しになる懸念もある。たとえば、DV被害を受けて避難している女性が、加害者との関係を続けたいと考える場合がある。このとき、安全の確保やDVの解消を重視する支援は重要であるが、それだけを優先すると、当事者の意思を一方的に否定してしまうおそれがある。つまり、「何が望ましい支援なのか」という判断と、「本人の選択をどう尊重するか」という問題のあいだに、葛藤が生じるのである。このように、AOPの実践においては、社会の不平等や抑圧を批判的に捉え続けることが重要であると同時に、目の前の当事者の思いや選択に丁寧に向き合う姿勢も欠かせない。構造的な問題を見る視点と、個人に寄り添う視点の両方をバランスよくもつことが求められている。(P37)」
「抑圧の撤廃」にばかり着目することで、DV被害の女性の思いや選択できる権利を奪ってしまう実践は、結果的に抑圧を強いてしまうことになりかねない。加害者との関係を続けていきたいとの意思に対して、「抑圧の撤廃」以外に支援者として何ができるか。それは直接何か伝えて被害者が変容する場合もあれば、何もできずただただ被害者の訴えを聞き続けるだけかもしれない。
しかし、何かをすることが、結果を残すことが実践ではないはずだ。被害者の思いや選択に耳を傾け、丁寧に向き合うことこそが、結果的に「抑圧の撤廃」へとつながることだってあるだろう。何が正解かはわからない。それでも、目の前で苦しんでいる人の声を聞き、その苦しんでいる社会的構造や歴史的背景は何かを知ることこそが、AOPの入り口になるのではないかと思う。
2章 他者の物語に耳を澄ます人たちへ──インターセクショナリティという灯(市川ヴィヴェカ)
僕の仕事は、成年後見業務が7割を占めている。成年後見業務とは、認知症や知的障害によって、適切な金銭管理や契約行為が難しい方に対して、家庭裁判所の審判を経て成年後見人等が就任し、本人に代わって決められた範囲で代理行為を行う業務のことである。この成年後見業務は、現在転換期を迎えている。制度創設時から、「判断能力がない→代わりに決める」という、代理行為ありきの制度だった。それが、2022年の国連障害者権利委員会の勧告によって、「一人では判断が難しい→本人が決められるよう支援する」という意思決定支援の浸透が求められるようになった。また、「必要なときに、必要な範囲だけ権利擁護を行う制度」へと転換する。
市川さんが書く2章では、僕自身の仕事に照らし合わせながら読み進めた。
「専門職の肩書をもって、他者の人生に踏みこもうとすること、影響を与えることは、本質的に暴力性をはらむ行為ではないか、と思うようになってきた。(P46)」
全くその通りだと思う。支援者としての自分は、偏った考え方や一つの言葉によって、支援対象者を深く傷つけることができてしまう。その場で傷つけなくても、「支援者と支援対象者」の関係性そのものが、諦めや自己否定などのパワーレスに陥るきっかけをつくってしまうかもしれない。そのような暴力性に、支援者として自覚的にならなければならないと考える。
そこでふと立ち止まる。なぜそのような暴力性が出現するのか、と。それについて、市川さんは「型抜きワーカー」との言葉で示している。
「様々な社会的困難と、個人の抱えるトラウマや自信のもてなさ、行政の枠組みの規制、市役所そして国の意向──そういう諸々が、まるで霞のように、「私たちは誰が幸せになるために仕事をしているのか?」を見えづらくする。(中略)けれども、個人の頑張りだけではどうにもならない構造的、組織的、そして社会的圧力が、様々な支援の現場に立つ福祉職者(資格の有無にかかわらず)を「組織の人」という型にはめこんでいく。クッキーの型抜きのように。(P49)」
本来、私たち人間は姿かたちはさまざまで、多様性豊かな生き物である。支援現場でも同じことが言えるだろう。しかし、支援を実践する側が、個人の頑張りだけではどうにもならない構造的、組織的、そして社会的圧力によって、みんな同じ姿かたちになってしまう「型抜きワーカー」となるとは、実に言い得て妙だと感じる。
僕自身はどうだろうか。正直に言うと、「型抜きワーカー」になっている場面があるかもしれない、と振り返り胸が痛い。支援対象者を主体とした支援とは言えず、効率性や支援者側の合理性を押し付けている場面は、一度や二度では済まされない。加えて、インテーク面接時にわずかな情報によって、「この人はこのような支援が必要そうだ」と、本人の声をろくに聞かず、画一的で今までの経験値による枠に当てはめようとする、その傲慢さこそが「型抜きワーカー」なのだろうと、猛省している。
そのように猛省する僕に対して、市川さんは「インターセクショナリティ」という灯を与えてくれる。
「インターセクショナリティとは何か。思い切って一言でまとめるならば、人を一つのアイデンティティカテゴリー(障害者、性的マイノリティー、高齢者、ひとり親、貧困等)に当てはめず、複雑なアイデンティティの集合体としてその人のホリスティック(全人的)な人格や人生経験を総合的に理解するための概念とでも表せるだろうか。そしてそれは、他者を理解するためのツールという役割にとどまらず、人間関係において、お互いの間で交差する複雑なアイデンティティが、どのように力関係・上下関係をつくり出すのかを可視化、分析し、それらの解放をめざす概念でもある。(P54-55)」
「型抜きワーカー」の思考に陥る際、僕は支援対象者に対して、何らかの「制度上の名前」で括っていなかったかと振り返る。しかし、人は誰しも一括りにされるように生きていない。複雑なアイデンティティの集合体によって、その人の輪郭が浮かび上がる。そしてその輪郭は、時間軸によっても場面によっても変化することを理解しておく必要がある。
一方、複雑なアイデンティティの集合体の掛け合わせによって、「生きづらさ」を抱えている場合があることも、支援者として認識しておかなければならない。要するに、支援者が支援対象者をアセスメントする際、一つの「制度上の言葉」で括らないこと。一見、多くの人に支援対象者の概要が理解される便利な言葉であるが、支援対象者のアイデンティティを粗末に扱うことに他ならない。そのように支援者には、差別や排除に加担しかねない暴力性を孕んでいることを自己覚知すべきだろう。
市川さんの章を読み、「インターセクショナリティ」という概念を知った。知る前からなんとなく、人は一つのアイデンティティカテゴリーで括られず、多様なアイデンティティの集合体によって形作られる、とは理解していたものの、そのモヤっとした思考を「インターセクショナリティ」という概念によって、腑に落ちた感覚を得た。
このような概念を知らず、無自覚に支援対象者に介入すると、支援者自身が差別や抑圧を助長させる存在となり、支援対象者はますますパワーレスに陥ってしまうだろう。今後は記録一つ取っても安易なラベリングはせず、僕も支援対象者も相互にエンパワメントできるような記載を念頭におきながら、新たな気持ちで実践現場に向かおうと思う。


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